「日刊オゼ☆ケン」通信 THE 2nd

「日本一の刃物のまち」前岐阜県関市長「尾関健治」(オゼ☆ケン・オゼケン)の政治活動通信

8月16日のブログ「12キロのジョグ&ウォーク、読みかけの本を読み進め、「修養と努力とは、自覚したる平凡人の全生活であらねばならぬ」」

今朝は午前9時前に自宅を出て、昨日と同じくトレランリュックを背負って、ユックリとした12キロのジョグ&ウォーク。

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↑ 津保川の定点観測

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↑ こんな風景を見ながらのジョグ&ウォーク

 

昨日より風があった分、体感温度は少しだけ低く感じましたが、それでも1.5ℓのハイドレーションの水は、自宅に戻る前にはカラに。

 

自宅に戻って、洗濯機を2回まわし、洗濯物を干し。

 

撮りためてあるテレビ番組を、何本か1.5倍速で視聴。

 

その後、読みかけの本を読み進め。

 

「崩壊の予兆(下)」、「ペスト」、「ミトコンドリアが進化を決めた」、「ロジカル・シンキング」、「ネグレクト 真奈ちゃんはなぜ死んだか」、「土地の神話」、「科学的思考のレッスン」、「特命全権大使 米欧回覧実記3」、「深夜特急5」、「週末海外」。

 

何度かブログでも紹介していますが、私の座右の銘としているひとつは、浜口雄幸の「随感録」の中の文章。

 

「余の信ずる所によれば、人格は努力と修養とによって完成せられないまでも少くともある程度において向上発達せられ得べきものであり、また向上発達せしめなければならぬものである。

 

余は生来極めて平凡な人間である。ただ幸いにして余は余自身の誠に平凡な人間であることをよく承知しておった。

 

平凡な人間が平凡なことをしておったのでは、この世において平凡以下の事しか為し得ぬこと極めて明瞭である。修養と努力とは、自覚したる平凡人の全生活であらねばならぬ。」

 

もちろん、単純に読書が好き、ということもあるのですが、「自覚したる平凡人」としては、「修養と努力」あるのみ、と思っています。

 

凡人は、「修養と努力」をどれだけ重ねても、短期間で成長することはできません。

 

 

高校1年生の時、英語のH先生から、

 

「お前らは、上っ面だけ格好つけとるやろ。トイレの乱れたスリッパを見れば分かる。誰も見てなくても、トイレのスリッパを揃える人間にならなあかん。」

 

と言われ、(なるほど)と思い、それからの高校3年間、毎日トイレのスリッパを揃えることにしました。

 

ほんの小さなことではあるのですが、とにかくやり続けて習慣とすることの大切さ、はトイレのスリッパから教えてもらったこと。

 

年に200冊以上を読む読書も、13年以上毎日書き連ねているこのブログも、10年以上続けているジョグも、私にとっての「トイレのスリッパ」。

 

「やる」ことや、「やり始める」ことは比較的できることですが、「虚仮の一念」のごとく「やり続ける」ことは誰にとってもハードルが高くなりますね。

 

市長として、職員にいつも偉そうに話をしていますが、自分自身が「修養と努力」を意識して行動していなかったら、とても恥ずかしくて職員の前で立って話はできません。

 

まともに思考も勉強もしていないのに、言うことだけは立派で批判だけは一丁前・・・という人にまれに遭遇することもありますが、「修養と努力」を続けていないことは人に伝わるもの、だと思っています。

 

自戒のために記します。