9月13日のブログ「広報せき・VSプロジェクト、「わしゃ知らん」、関高時代」
今朝もいつものユックリとした5キロのジョグ。
連日、午後2時から午後3時半くらいにかけて、県からコロナ感染者の連絡が入るので、今日も公用携帯に電話が入るのを待っていたのですが・・・
今日は関市の感染者はゼロ。
約1ヶ月ぶりですね。
引き続き、各自ができる感染防止対策を徹底しましょう。
↑ 今月9月号の広報せき・・・私が覚えている限り、表紙が横になったのは初めて、ですかね
巻頭企画は、高校生のまちづくり事業「VSプロジェクト」について。
先月8月、VSプロジェクトのメンバーと車座集会の場をもちました。
↑ ポーズはとりましたが、どういう意味があるポーズなのかは分かりません・・・職員のご指示の通りに(笑)
高校生のときに市長になることを志したわけですが、自分の高校時代を振り返ると、まちとの関わりはほとんど無かったですね。
そう考えると、今の高校生は学校以外の活動の幅があって良いですね。
先日の松下政経塾の「大忍」と同じように、高校時代のことも岐阜新聞「素描」に少し書いたことがあります。
「わしゃ知らん」
関高校入学初日は遅刻した。教室に入ると、「初日から遅刻するとは大した度胸やないか」と言われたが、褒められたわけでないことはさすがに分かった。
担任の高橋義明先生から、出席簿で頭をたたかれての高校生活スタートだった。(高橋先生が3年間通して担任だった)
「どう生きるか」という問いは、相変わらず自分の頭にあった。また、結論を出すべき時期でもあった。
とにかく自分が生まれ育った、愛する関市のために働きたい、という理屈抜きの想いが根底に強く流れていた。
将来を思い描いたとき、会社で働く姿が想像できず、心が動かなかった。一方、「世のため、人のために尽くす」と考えたとき、人生意気に感じ、心が震えて燃えてきた。
また、当時、政治とお金をめぐる事件がいくつか起こり、お金により政治の公平性が歪められることに激しい憤りを感じた。政治に関心を持ったきっかけだった。
これらの想いがつながって「いつか関市の市長になって故郷のために尽くす」ということが、自分の「素志」となった。
大阪出身の高橋先生は、関西弁でよくこういう話をクラスでしていた。
「お前らの人生なんやから、お前らがどうなろうと、わしゃ知らん」
当時、「担任なのに、ここまで突き放すのか」と唖然としたものだ。
しかし、人に決めてもらった人生は、少し辛いことがあれば、おそらく言い訳や逃げばかりになるだろう。自分自身で選んだ道だからこそ、初めて覚悟と責任を持つことができる。
「わしゃ知らん」は、自立心を教えてくれた。
↑ 高橋義明・先生と一緒に写っている写真は、クラス写真以外ではこの1枚のみ・・・修学旅行から高校に戻ってきた夜ですね
修学旅行での京都での散策、高橋先生からは「必ずグループで行動するように」と言われていたものの、(まぁ、適当に別々で行動しよまい)という話になり・・・
夕方、宿泊先のホテルに帰ったら、玄関前で高橋先生が仁王立ち。
「必ずグループで行動するように言うたやろうが!」
と、ホテル横に連れていかれて、ビンタされた思い出が・・・入学式のときと、あまり変わってません(笑)。
ただし、どんなときにも(他にも何度か)、自分自身が悪い、と自分自身が一番分かっているときでしたので、大いに反省はしても反感を持つようなことは皆無でしたね。
・・・と、いきなり高校時代のことを書きだしたのは、10月1日にある関高校創立100周年記念式典用に高校時代の写真を貸してほしい、と頼まれたため。
久しぶりに高校時代のアルバムのページをめくりました。