6月28日のブログ「岩佐さん親子が溶接全国大会に出場、補聴器・ヘルメット購入助成、ワクチン健康被害救済制度の文書料支援、ツヴィリング・ヘンケルス50周年、中村繁・前副市長のお通夜」
今朝もいつものユックリとした5キロのジョグ。
市役所に入って、打ち合わせや決裁など。
午前9時10分から、広見区役員の方から要望書の受領。
昨年度にいただいた要望も、いくつかは対応していますが、継続と新規の要望をいただきました・・・こういうものに終わりはありません。
午前9時半から、農業委員会の役員を退任される野村茂・会長、玉田和久・職務代理がご挨拶に。
どんな組織・団体でも「長」の一文字が付いただけで、背負うべき責任も大きくなります。
関市の農業のためにご尽力いただいたことに、感謝をお伝えしました。
午前9時50分から、有限会社岩佐溶接鉄工所の岩佐富雄さん・将徳さんの親子が報告に。
昨年9月の全国大会では、将徳さんが4位入賞の好成績を収められ、また、今年度の県大会では親子で優勝され、11月に茨城県で開催される全国大会への出場が決定しています。
全国大会の目標は、親子での「W優勝」・・・ぜひがんばってもらいたい、と思います。
午前10時半から、毎月恒例の記者会見。
7月から新たに始める助成制度等を3つ発表しました。
①補聴器の助成制度(2市2町に続いて県内5番目)
②ワクチン健康被害救済制度に係る文書料の支援(各務原市と同時に県内初)
③自転車乗車用ヘルメット購入補助(3町に続いて県内4番目、21市では初)
午後2時15分に、ツヴィリングJ.A. ヘンケルスジャパンの50周年記念事業へ。
今年、日本法人設立から50周年を迎えられるということで、記念事業にご案内をいただきました。
今日はトマトの早切りのギネス挑戦を工場前の屋外で・・・の予定でしたが、いよいよこれから、というところで、雨が降り始めたために急遽、会場を屋内に変更。
↑ アンドリュー社長が使う包丁の説明・・・この後、雨が降り出しました
↑ 分かりづらい写真ですが、激しい雷雨となりました
↑ トマトの早切りは1分以内で10個以上のトマトを8カットすることが条件
その後、工場内にてペットボトルチャレンジ・・・アンドリュー社長が27本のペットボトルをカット。
再び会場を移して、先ほどのトマトの早切り挑戦の結果発表・・・見事、3名のチャレンジで1名の方が11個のトマトをカットしてギネスに認定されました。
↑ わざわざギネス認定員の方も来場
その後、関市の「紺乃」さんはじめ、美味しい料理が提供されての懇親会。
懇親会の冒頭、地元の市長として、関市のふるさと納税においても、大変な人気商品を提供いただいていることに感謝をお伝えしました。
午後5時半前に懇親会は終了。
一旦、自宅に戻って着替えて、午後7時半から総合斎苑わかくさにて、中村繁・前副市長のお通夜に参列。
私が初めて中村繁・前副市長にお会いしたのは、松下政経塾時代、3か月間にわたる関市役所でインターンとして受け入れていただいたとき。
当時、中村さんは秘書課の職員で、机の上に大型バイクと一緒に写った写真が置いてあったことを今でもよく覚えています。
その後、再会したのは34歳で関市に戻って、市議会議員になったときなのですが、市労連の委員長OB等が中心の職員有志の飲み会に声をかけていただいたり・・・当時のメンバーは、気骨ある皆さんの集まりで、政治活動のアドバイスもいただきました。
私が市長選に初めて挑戦した際、当然のことですが、部長級の皆さんは表には出ないまでも現職支持となりました。
選挙戦の真っ最中、個人演説会を終えて選挙事務所に私が帰っていたとき、選挙事務所前をウォーキング姿の中村さんが通られたことがありました。
私が気付いて中村さんに声をかけさせてもらったのですが、日中など目立つときには事務所に顔を出せないため、あえてウォーキングの途中でたまたま・・・というかたちをとって、私の激励に来ていただいたのだと思います。
選挙戦を終えて、実際に39歳で市長に就任した際、「自分自身は市役所の実務は分からない以上、副市長は必ずプロパー職員から上がってもらう」つもりだったので、当時、部長職(教育委員会事務局長)だった中村さんに早期退職をしてもらい、副市長に就任してもらいました。
市長選の争点となった、市役所隣の「健康福祉交流施設」は、選挙公約で「中止」を掲げて当選したこともあり、設計予算等はすでに一部執行されていましたが、公約通り「中止」としました。
市長である私自身は、「中止する」と決断したのですが、契約先等との実際の交渉は担当の部課長はじめ職員の皆さんでしたし、陣頭指揮を執ってもらったのが中村さんでした。
市長に就任して12年目を迎える現在であれば、どんな課題が起こっても自分自身で職員に指示をしながら、一定の結果が出せると思いますが、12年前はほぼほぼすべての負担が副市長はじめ職員の皆さんにかかっていた、と思います。
当時、その他にも「関市制施行以来で初」・「関市議会において初」という案件がいくつかあったと記憶していますが、このあたりは私も中村副市長もお互いに似ているところもあって、正々堂々と正面切って突き進んできたつもりです。
中村さんは身体もがっしりと大きかったですが、何よりも肝が据わっていて、人間的にも懐が深く安定感がありました。
39歳の若輩者が何とか市長を続けてこれたのは、中村・副市長、吉田・教育長との3人コンビであったことが大きい、と思います。
・・・書き始めると終わりがなくなってしまうのですが、今日のお通夜式では、上に書いたことをずっと思い出していました。