「日刊オゼ☆ケン」通信 THE 2nd

「日本一の刃物のまち」前岐阜県関市長「尾関健治」(オゼ☆ケン・オゼケン)の政治活動通信

9月22日のブログ「無職生活がスタート、サンパル後援会の締め括りの会、石原通男・先生や先祖のお墓に御礼」

今朝もいつものユックリとした5キロのジョグ。

 

今日から無職生活がスタートしましたが、できる限り、ルーティンは続けるつもりです。

 

洗濯機をまわし、洗濯物を干し。

 

市長室から持ち帰った荷物、餞別としていただいた品々、整理する時間がなく、とりあえず床に置いただけの状態に。

 

足の踏み場をまずつくるために、部屋を少し整理。

 

午前11時過ぎに自宅を出て、仲町の「かぐら本店」へ。

 

先日、全体の後援会の締め括りの会を開催いただきましたが、今日はサンパル後援会の締め括りの会。

 

数多くの団体にメンバーとなっていただき、これまで年1回の後援会バス旅行を中心に活動いただきました。

 

コロナ禍前の2019年には、500名以上の方に参加をいただき、過去最大のバス11台で親睦を深めました。

 

oze-ken.cocolog-nifty.com

 

大きな団体のピラミッド型の後援会ではなく、女性を中心とした集まりの緩やかなネットワークを特徴とした後援会でした。

 

今日は会場キャパの都合もあり、各団体から最大2名という条件でしたが、それでも50名近くの方にご参加をいただきました。

 

改めて、後援会の皆さんに相談することなく不出馬表明をしたことのお詫びと、これまで5回の選挙を支えていただいたことに感謝をお伝えしました。

 

今日はお昼ということもありアルコールは抜きでしたので、各テーブルをまわってお礼をお伝えしながら、それぞれのテーブルで一緒に記念撮影。

 

今日もできる限り笑顔でいようと決めていましたが、お世話になった方が逆に「本当に残念」と泣きそうになられると、私自身も感情が溢れそうになります。

 

最後は、お一人ずつ握手をして、感謝をお伝えしてお見送り。

 

誠にありがとうございました。

 

その後、後援会長を務めていただいた石原通男・先生のご自宅を訪問して、奥様にお礼のご挨拶。

石原通男・先生からいただいた絵画のエピソードについては、広報のコラムにも紹介したことがあります。

 

www.city.seki.lg.jp

 

石原通男・先生がご存命であれば、退任にあたってどういう言葉をかけていただけただろうか、と思いを馳せます。

 


↑ 石原ミチオ「湧出」・・・今は梱包したままで自宅にありますが、また、この絵を部屋に飾りたい、と思います

 

その後、母方の祖父母が眠る倉知の大龍寺にて、無事に市長職を全うしたことを墓前に報告。

 

祖父は煙草の専売公社で働いていたので、野田聖子・衆議員の祖父にあたる野田卯一・先生の選挙のときには、かなり精力的に動いたそうです。

 

母の実家を訪問すると、戦争に出征した話や、野田卯一・先生の選挙の話を何度も聞かせてくれました。

 

祖母は料理が上手で、いつも優しかった思い出しかありません。

 

ただ、私が松下政経塾に入った後に、お盆かお正月に訪問した際、「けんちゃん、本当に政治の世界でやってけるか?」と、心配そうな顔で訊かれたことを今でも覚えています。

 

当時、祖母に対して、どういう答えをしたか、覚えていないのですが、市議会議員・市長の職にあった16年間強、祖母の言葉は宿題としてずっと頭にありました。

 

祖父が存命であれば、市長になったことを喜んでくれたと思いますし、逆に祖母は心配をしてくれた、と思います。

 

今日は、祖父母に「多くの皆さんに支えられて、何とか市長の職責を全うできました」と報告しました。

 

祖母もホッと安心してくれた、と思います。

 

その後、マーゴのユニクロに立ち寄り、世界一周のときに着ていける服がないかチェック。

一時、集中的にルートやホテル等を決めたのですが、その後は退任挨拶や送別会等が重なり、まともに準備をしていません。

いまだに2か月間の服装が決まっていないのですが、早急に準備をしなければいけません。

 

続いて、父方の先祖が眠る地元東田原の大通寺へ。

 

昭和19年に戦死した大叔父のお墓、昭和36年に父が建てた尾関家のお墓の前で、同じように市長職を全うできたことを報告。

 

大叔父は23歳の若さで命を落としましたので、本人だけでなく家族も含めてその無念さはいかばかりだったか、と思います。

 

また、私の父は18歳のときに実父(私にとっては祖父)を48歳で亡くし、兄である長男(私にとって伯父)が実家を継ぐも24歳で急逝し、次男であった父が尾関家を継ぐことに。

 

父は昭和14年生まれですから、22歳のときに尾関家の墓を当主として建立したことになります。

 

祖母は私が生まれてすぐに亡くなっていますので、祖母の記憶はなく、唯一、父が何度か見せてくれた八ミリ映像に、赤ちゃんだった私と一緒に映っている祖母の姿を見たことがあるだけです。

 

私が22歳・23歳のときには、放埓が過ぎて大学を留年して、確かなものは何も無い中、ただただ尖がって吠えていた記憶しかありませんが、大叔父は戦争で命を亡くし、私の父は父・兄を亡くして一家の大黒柱であったことを思うと、まぁ、私自身はホントにお気楽な人間としか言いようがありませんね。

 

その後、地元東田原の八幡神社にも参拝。

毎年、年始には参拝していますが、同じく市長職を全うできたことをご報告。

 

自宅に戻って、しばらく泥だらけで放置していたロド☆スタを久しぶりに洗車。

 


↑ 結構な勢いで泥ハネが踊ってました

 

その後、10月3日からの世界一周に向けて、荷物のパッキングを徐々にスタート。

 

とはいえ、バッグに入れるのではなく、とりあえず持っていくものを床にまとめて積んでいく作業。

 

前にも書いたかもしれませんが、飛行機内への預入れを避けて、すべての荷物の機内持ち込みを予定しています。

 

したがって、バッグは30リットルのリュック、さらに小さいショルダーバッグの2つ。

 

バッグパッカーとして周遊している旅行者は、大きいバッグだと60~70リットルのリュックを背負っている人も珍しくありません。

 

私のテーマは、とにもかくにも軽量化・コンパクト化・・・果たして、どこまで入れ込むことができるのか、現時点では判然としません。

 

残り10日間で、しっかりと積み上げないと。